屋島源平の戦い(下巻) つづき
| 寿永4年2月20日 |
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源平の戦いの史跡 |
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![]() 日経BP社 義経伝説紀行より |
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寿永4年2月19日夜、源氏軍は夜襲を慮って一旦退き、瓜生が丘に陣を敷きました。(上図左下) |
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その瓜生が丘の現在の様子です。 |
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| 瓜生が丘 | |
| 右の写真の碑には宇龍ヶ岡と彫られていますので、昔はこの字が使われたのでしょうか。 | |
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瓜生が丘全景(後出の菜切り地蔵から撮影) 現在は高松市のベッドタウンになって民家が建て込んでいますが、昔は野原だったのでしょうか。 |
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瓜生が丘から見た屋島 |
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| 820年前、義経も眺めたでしょうか。 屋島の山容は今も同じでが、その日は前日の戦闘で焼き払われた安徳天皇の行宮(天皇社)の煙が辺りに立ち込めていたはずです。 |
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同じ場所から見た五剣山 |
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| 山の中央のコブの下あたりが総門でした。 この総門も焼かれて、その煙が立ち込めていたでしょう。 五剣山の5つあったコブは今は4つしかありません。 蛇足ですが、この山は庵治石と言う有名な花崗岩の産地で、左側の方は、山の形が変わるくらい掘られています。 |
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同じ場所から見た菜切り地蔵堂 |
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| 岡の上の中央の三角屋根が菜切り地蔵(後出)です。 | |
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菜切地蔵 |
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| 弁慶が、マナ板代わりにお地蔵さんの背で野菜を切って料理し、汁を作って義経に差し上げたと言うお話が残っています。 また、お地蔵さんの背には、刀痕があると言われていますが、本当でしょうか。 後世、こんな小噺が作られています。 弁慶がこの汁を義経に差し出すと、義経は「弁慶がこしらえし菜はむさしぼう(武蔵坊)」と発句を読むと、弁慶は「それを知りつつ食らう(九郎)判官」と返した、と言う小噺です。 |
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長刀泉(ナギナタイズミ) 弁慶が長刀で掘った井戸の跡と伝えられている所です。 |
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寿永4年2月20日の合戦 |
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屋島源平の戦い史跡マップ ![]() 日経BP社義経伝説紀行より |
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各所に放たれた火を見て、源氏の大軍の来襲と思い海上に退いた平宗盛は、源氏の軍勢が少人数であった事に気付き、翌20日体制を立て直して戦いを挑んできました。 |
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20日は、この戦いの中で最も激戦のあった日で、以下に出てくる那須与一の扇の的、悪七兵衛景清の錣(シコロ)引き、義経の弓流しなど、後々の世までも語り継がれる武勇伝が繰り広げられました。 |
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那須与一の扇の的 |
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2月20日夕刻、日は西に傾き、戦闘も一段落しましたので、源氏の将兵たちが陣地に引き上げようとしている時、1艘の平氏の船が近づいてきました。 よく見ると、この船の舳先に1本の棹が立てられ、その棹の先端には紅地に金色の日輪を描いた扇が括りつけられています。 そして、舳先に立った若い女官が、しきりに手招きしています。 これは、「この扇の的を射落としてみよ」と言う平氏の挑戦でしょう。 武士としてこの挑戦に応じないわけにはいきません。 義経は弓の名手とうたわれていた那須与一にあれを射落とせと命じました。 与一は辞退しましたが、義経の強い命令で、愛馬にまたがり海に乗り入れました。 祈り岩まで駒を進めた与一は「願はくはあの扇を射させ給え」と神に祈り、そして駒立岩に駒をとめ、心を鎮めて鏑矢をひょうと放ちました。 放たれた鏑矢は浦に響くほどに鳴り渡って飛び、狙い過たず見事に扇に命中しました。 扇は空に舞い上がって虚空できらきらと煌いていましたが、折からの春風にゆらゆら揺れたと思うとさっと海に落ち、白波の上を浮きつ沈みつ漂いました。 これを見て、沖では平氏の軍勢が船端を叩いて感嘆の声をあげ、陸では源氏の将兵が箙を叩いてどっと歓声を上げました。 平家物語に「沖には平家、船ばたを叩いて感じたり。陸には源氏、箙を叩いてどよめきたりと書かかれています。 那須与一は下野那須の出で、その後、丹波、信濃など5カ国に所領を賜り、那須の総領となリましたが、のち剃髪して伏見の即聖院に入ったと言う記録がありますが生没年は不詳です。 |
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洲崎寺境内にある顕彰碑 |
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祈り岩 |
那須与一扇の的衝立(洲崎寺蔵) |
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この岩は相引川の支流にあって辛うじて元の海らしいたたずまいは残っています。干潮を狙って撮ったので岩は姿を現していま すが、潮が満ちてくると見えなくなります。 |
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錣(シコロ)引きの跡 |
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那須与一の扇の的の後、源氏の武士、美尾屋(ミオノヤ)十郎らは、平家の武者3人が手招きしているのを見、これを討とうと駆けつけましたが、先頭の十郎は馬を射られて転倒しました。 そこへ平家の悪七兵衛影景清(アクシチビョウエカゲキヨ)が大長刀を振るって切り込んできました。 十郎は刀を折られたので退こうとした時、景清に兜の錣を掴んで引き戻されそうになりました。そうはさせじ引き合ううち、遂に錣が千切れてしまい十郎は逃れる事ができました。 戦いの後、十郎が「腕の強さよ」と景清を誉めると、景清は「首の強さよ」と十郎を讃えたと言うことです。 錣(シコロ): 首を護るために兜の後ろに垂らした部分 |
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義経の弓流しの跡 |
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錣引きの武勇伝があった戦闘の後、平家軍が上陸して戦いを挑んできたので、義経たち80余騎が、海に乗り入れて、これに攻撃をしかけると、平家はひとたまりもなく海上へ退却しました。 義経は勝に乗じて海中をさらに進んで戦う内に、脇下に挟んでいた弓を海中に落し、その弓は、引き潮の波に揺られて敵船近くまで流れてゆきました。 義経はその弓を追っかけ、必死で馬上からそれを拾おうとしましたが、平家方は船から熊手で義経を引っかけようと向かってきました。 それを見ていた源氏の将兵は、「その弓をお捨て下さい」と叫びましたが、義経それに耳をかさず、やっとのことで弓を拾いあげ元の渚に上がってきました。 戦いが終わってから、老臣増尾十郎兼房が、「弓がたとえ千金の値がしようとも、総大将たるものが命を軽ろんずるようでは、勿体無いことよ」と涙を流して諫めると、義経は「いやいや弓が惜しかったわけではない、叔父、為朝ほどの強弓であったならば、わざとくれてやってもよいが、こんな弱い弓では、これが源氏の大将の弓かと嘲笑をうけ、末代までも源氏の名折れになる」と言ったので、兼房初め家来達は感激して涙を流したと言うことです。 |
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義経の弓流しのあったところと伝えられていますが、今は街なかのただの空き地になっていて昔を偲ぶよすがもありません。 |
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寿永4年2月21日 |
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志度寺 |
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| 屋島檀ノ浦で敗れた平宗盛らは、ここで体勢を立て直して義経ら源氏とと戦いますが、戦い利あらず、瀬戸の海を西に向かって敗走しました。 この戦いの2年後、平家は壇の浦の戦いにも敗れ、この時、安徳天皇は二位の尼に抱かれて入水し、平家は歴史から姿を消しました。 時に寿永6年3月24日。 |
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志度寺は、推古33年(625年)観音浄土の瀬戸の入り口として開祖された古刹で、行基、最澄、空海、などが堂宇を修復し、藤原家末裔の生駒親正等の支援を得、法相宗、浄土宗、天台宗、真言宗と時代により変遷しながら、寛文11年(1671)初代高松藩主松平頼重公が堂宇を寄進造営して今日に至っています。 1万坪の広い敷地には、謡曲、「海女(アマ)」の海女の墓、浄瑠璃の「花上野誉碑(ハナノウエノノホマレノイシブミ)の奥書院などがあり、また四国88箇所霊場の86番札所でもあります。 写真は志度寺正面、寛文11年(1671)建造の国重文、仁王門ですが、勿論、これができたのは源平合戦からズット後のことです。 |
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志度寺本堂(1671年建造。国重文) |
その他この戦いに関係する人や史跡。 |
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平家の武将の墓と言われている道端の石碑。 心優しい土地の人によって花が手向けられていました。 |
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義盛塚 義盛塚と言われていますが、伊勢三郎義盛はずっと後で亡くなっていますので、義盛の陣所跡でないかと言う説もあります。 |
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伊勢義盛 義経四天王と呼ばれた義経の腹心の一人で、通称は三郎と呼ばれました。 経歴ははっきりせず、伊勢の国司の子であるという説、山賊の子であるという説、上野国で家来になったという説などがあります。 屋島でも活躍しますが、平家最後の壇ノ浦の戦いでは、平宗盛、清宗親子を生け捕るなどの功績も残っています。 その後、義経の都落ちにも行を共にしますが、最後は伊勢で守護を襲撃して敗れ、自害したと言われています。 |
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ken 注 伊勢義盛は義経の腹心として義経と行を共にし、この屋島の源平の戦いでも、随所で活躍していますが、意外に知られていません。 義盛の活躍を書くとテーマから外れるので、HPにはアップしていませんが、私はこの人物に大変興味を持っています。 NHKの義経ではナンチャン〔南原清隆〕がこの義盛を演じていますので、これからどんな人物に描かれるのか注目して行きたいと思っています。 そのような理由で、どうしても義盛塚を撮りたかったので、地図を頼りに義盛塚近くまで行き、ウロウロと2時間余りも探しましたが見つからず、諦めて帰る途中、たまたま通りかかったお年寄りに、半分諦めて聞いてみると、「私も見たことはないが多分此処でしょう」と連れて行ってくれました。 ところがこの場所、個人の農家の裏の畠の中の私有地で、此処に行くには、田や畠の中を通って家の裏に出なければならず、田畑の所有者のお許しがないと行くことができないところでした。 「つい最近まで道路から見えたのに、今は家が建て込んで見えなくなってしもうて・・」とはお年寄りの話でした。 苦労して撮った写真です。 |
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| 血の池 | |
| 屋島山頂の屋島寺の寺領で、すぐそばにあります。 戦いの後、武士達が血刀や槍を洗い、池の水が赤く染まったため血の池と呼ばれるようになったと伝えられています。 |
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鎧島(左端)と兜島(真ん中) |
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| この辺りの海は、源氏の船を満を持して待ち受けていた平家の船が満ち満ちていました。 この鎧島と兜島は平家が敗走した後、甲冑や武具が残されていたので呼ばれるようになったと言われて生ます。 ついでに、右端の島は若い人に人気のセカチュー「世界の中心で愛を叫ぶ」のロケがあった稲毛島です。 |
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